ゲノム解析を健康診断に活用する課題はなにか

2023年5月15日
話し手
  • 東京医科歯科大学
    名誉教授
  • 田中 博

従業員の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することが求められる「健康経営」は、「国民の健康寿命の延伸」に関する取り組みの1つとなっており、日本再興戦略および未来投資戦略に位置づけられている。健康経営の実践に欠かせない健康診断に、最新のゲノム解析技術を活用することは可能なのか。その際には、どのような課題が考えられるのかなどについて、AIを活用したゲノム解析に取り組む医療ITの第一人者、東京医科歯科大学名誉教授の田中博先生に現状を伺った。

人の体はゲノム解析によってどこまで分かるのか

──先生はゲノム解析など先端的な医療情報の活用に積極的に取り組んでいますが、ゲノムとはどのようなものなのでしょうか。

田中 ゲノムとは遺伝子(gene)と染色体(chromosome)から合成された言葉で、私たちの体を作る設計図とも言われているDNA(デオキシリボ核酸)にあるすべての遺伝情報を指します。そもそも遺伝とは、例えば親子で目や鼻の形が似ていたり、ある病気にかかりやすいなど、親の生物学的な特徴が子供に伝わることです。そうした遺伝情報を伝えるDNAの特定の部分が遺伝子と呼ばれているのですが、ゲノムを解析するとその人が生まれた時から先天的にもっている病気の予防や診断・治療に結びつくのです。

──その人の先天的な疾患の傾向を調べるには、どのような方法があるのでしょうか。

田中 遺伝情報を担うDNAの塩基配列(A/T/G/Cの4種類の塩基による配列)は、人と人とでは99.9%が同じなのですが、残りの0.1%においては配列に違いが存在します。この違いによって、私たち一人一人の姿形や能力に差異が生じるのです。遺伝性の疾患は8000種類を超えており、現時点でその中の5000種類についてはどの遺伝子の変異が疾患の原因につながるのかが分かってきました。そこで、0.1%のDNAの塩基配列の中から、1つだけ異なる塩基に置き換わったことを意味する「SNP(Single Nucleotide Polymorphism:スニップ)」の情報を調べて、がんや糖尿病など個々の疾患の先天的な傾向を知ろうとしています。

──そのような情報を活用して、実際に糖尿病などの生活習慣病の予兆を健康管理に活かそうとする取り組みは、すでに国内外で行われているのでしょうか。

田中 欧米ではイギリスのUKバイオバンクという機関が、英国内全域に渡って40歳から69歳まで約50万人から集めたゲノム情報を、生活習慣病などの発症に関わる解析の指標として活用しています。一方で遺伝子についての研究が進むにつれ、遺伝子の型が同じであっても人種や民族などのちがいによって、疾患の発症リスクが異なることも明らかになっています。そこで、日本人のゲノムを解析して疾病の予兆を知るには、日本人から集められたゲノム情報が必要になることから、バイオバンク・ジャパンや東北メディカル・メガバンク機構といった機関が数10万人単位で日本人のゲノム情報の収集を進めています。とはいえ、日本の場合はそうして集めたゲノム情報の活用に関して法整備も遅れていることから、欧米に比べると慎重で、積極的な活用はまだ始まっていません。

健康診断にゲノム解析を活用する上での課題とは

──企業などの健康診断にゲノム情報解析も加えれば、社員の健康管理にも生かせると思うのですが。

田中 そのためには、個人のゲノム情報の利用についてきちんと決めておく必要があります。単に健康診断に組み込んで健康を管理する目的だけでゲノム情報が使われるのなら問題ないのですが、例えば生命保険会社がその情報を見て、個人ごとに生命保険の条件を決めることもできてしまいます。すなわち、将来発症する可能性がある疾病については、保険が適用されないという条件で契約させられる可能性だってあるのです。

──ゲノム情報は、生活習慣や環境によって変化することはないのでしょうか。

田中 生まれつきもっているゲノム情報は、その人の一生の中で変化することはありません。何歳の時でも構わないので、1回調べてもらうだけでよいのです。ただ、いつ調べるかによって、その人の人生にいろいろと影響を与えることになりそうです。例えば、40歳になった時に生活習慣病の可能性について調べましょうとなっても、すでに糖尿病に罹患している人もいるでしょう。極端なことをいえば、新生児の時に調べるといいかもしれませんが、その時に糖尿病の罹患の恐れが見つかった子供に対しては、平時より甘いものの摂取については、気をつけながら生活する必要があります。

──入社時の健康診断でゲノム情報の解析を組み込んだ場合、企業側にはどのような責任が生じることが考えられますか。

田中 新入社員のゲノム情報を解析したとしても、企業がその情報をどう扱うのかが難しいでしょう。例えば糖尿病の傾向が見つかったとしても、本人に甘い食べ物の摂取を制限させたり、お酒を飲まないように注意することはできても、それを具体的に指導して企業側で管理するのは簡単ではありません。もし、社員に対する健康管理ができたとしても、その人が転職してしまえば無駄になるので、そこまでして企業がすべての社員の健康管理について面倒を見る必要があるのかという疑問も残ります。その意味でも、PHR(Personal Health Record: パーソナルヘルスレコード)の推進が必要となります。

──そういったさまざまな課題はあるにしても、先生はゲノム解析を積極的に健康管理に取り入れていくべきだとお考えなのですね。

田中 私としては現在会長を務めている地域医療福祉情報連携協議会においても、今後はゲノム情報の解析を進めていくべきだと言っています。人生100年時代において、生涯にわたる健康管理の中でまずはゲノム情報を調べて、個人に応じた医療を進めないといけない。そうしたことをベースに、地域医療連携を作っていくことが重要だと考えています。中国の漢文に、「下医は病を治し、中医は人を治し、上医は国を治す」という言葉があります。ゲノム解析は、まさに人を治すために使われるべきだと思っています。

ゲノム解析にIT技術を活用する人材育成も必要

──ゲノム解析に、AIなどの最新IT技術はどのように役立つのでしょうか。

田中 ある決まった単一の遺伝子変異によって引き起こされるハンチントン病などの病気だと、ゲノム解析も簡単です。ところが、数百から数千の遺伝子変異によって引き起こされる可能性がある複雑な疾患のリスクの判断は、簡単ではありません。そこで、現在は個人がもつ特定疾患の発症リスクを高めるすべての遺伝子変異をスコア化して、病気の発症や進展を予測するPRS(Polygenic Risk Score)と呼ばれる手法が使われています。とはいえPRSでも、テキストファイルで1テラくらいにもなる個人のゲノム情報に対して、3000万冊を超える論文で構成された発病リスクのデータベースを照合させる必要があります。そういった多対多の関係を調べるために、AIのディープラーニングといった最新のIT技術が使われているのです。

──今後は先生のように、医学と情報学の両方の知識をもつ人材が必要になってきますね。

田中 現在、文部科学省から予算をもらって、医学系に関するデータサイエンスの知識をもつ人材の育成事業を進めています。今医学部にいる学生たちにも、これからは医師もAIやデータサイエンスを学ばないと生き残れないぞと脅しています。ただ、そういった知識をもつ人材を育てるのも、簡単にはいかないと思っています。そもそも、医者にITを教える方がよいのか、ITエンジニアに医学を教える方がよいのか。医学を学ぶには生物学から始まり、DNAとはなにかを学んでさまざまな病気の名前も覚える必要があるのですが、ITエンジニアがそういった知識を新たに身につけられるのか。一方で、日々新しい論文に目を通さなければならない医者に、果たしてデータサイエンスを学ぶ時間があるのか。そうした課題がありますが、今後は積極的に医学と情報学の両方の知識をもつ人材の育成を広げていかなければと思っています。

──そういった人材は、すぐにでも必要になってくるのでしょうか。

田中 まだ、そこまで逼迫しているとは感じていません。医学はこれまでに、2回大きな変革を迎えてきました。1回目は抗生物質の発見で、例えば結核による死亡率を1000分の1くらいに抑えました。2回目はまさに今行われているゲノム解析など、生体の中で起きている化学現象を分子レベルで解明する分子生命科学です。そして、AIやビッグデータなどのIT技術を活用した医学は、これから起きようとしている3回目の大きな変革であると見ています。とはいえ、2回目の変革に関しても、1970年代にはもうDNAの二重螺旋も分かっていたし、遺伝子組み換え技術も出来上がっていたにも関わらず、最近になってようやく臨床応用が始まりました。

──ということは、人材育成にかける時間はまだたっぷりとあるということですね。

田中 2回目の変革に40年以上の時間を要したことを考えると、今始まったゲノム解析などでのAI活用が成熟するのも数10年かかるかも知れません。ただし、決して後戻りはしないと思っているので、これから時間をかけて、AIに使われる医者ではなく、今話題のChatGPTなども含めて、AIを使う医者を育てていきたいと考えています。

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